辛亥革命100年:傍系の日中関係、アジア主義の系譜(その3)

■番外編なアジア主義者
日中戦争が始まると、インテリ層の頭の産物ではない、最も地に足がついたアジア主義というべきものが生まれる。実際の人数がどれくらいかは分からないが、彼らは、自らを「文化戦士」と名乗った。
日中戦争で、最終的には百万ともいわれる日本人が徴兵されて中国に渡り、奥地に進軍すると、キリスト教会から送られた、西洋の若者たちがそこで孤児院、病院、寺子屋等を作って地元に奉仕している姿を各地で目撃した。(日本では江戸時代初期までに宣教師を締め出したが、明朝時代頃から、後発であるキリスト教の一派、イエスズ会が未開拓市場で信者獲得のため、中国の奥地に入り込んでいたので、日本軍が彼らを見つけたのは偶然ではない)そこで、彼らは愕然とする。今まで日本の中国専門家といわれる人々は、西洋が中国をいじめ、日本が中国を助け、アジアのリーダーとなると言っていなかったか?日本がアジアのリーダーと自称するならば、西洋の若者たちがやっていることと同等のこと、或いはそれ以上行うべきではないのか?
また、当時五億人いるといわれた中国で、高々百万くらい兵を送ってみたところで、所詮日本軍が抑えられるのは、点でしかない。基本的に反日感情の中に身を置いている日本兵は、小学校の机の裏にまで張られた反日ビラを見るにつけ、日本と中国が戦わなければならない理由を問い、全く見いだせなかった。むしろ、戦闘に巻き込まれてもなおたくましく生きる民間人に、共感がわいた。4万人の娘の身売りを余儀なくされた昭和恐慌で大打撃を受けた日本の農村にいる家族の姿が重なった。できる範囲内ででも、中国の民のために喜ばれることをし、反日感情を緩和しよう。
そうして、文化戦士たちは、学校、病院、灌漑施設等を建設していく。いわば、現在の経済協力の走りともいえる行為だ。
そして、おそらく、この行為を以て一部の日本人は、「戦中もいいことをした」と主張しているのだろうが、勘違いしないでほしい。文化戦士は、最初から青年海外協力隊、シニア隊として中国に行ったわけではない。戦争をしにいって、日中戦争の無意味さを感じたから、彼らは「文化戦士」になったのである。現代のイラク、アフガニスタン情勢の泥沼化で苦しんでいる米軍が、武力だけでの鎮圧だけではテロ行為がなくならないと悟り、ペトレイアス将軍(当時)指揮の下、対テロ作戦で現地民との協調路線に転換しなければならなかったように、日本軍もまた、現地の中国人の生活向上に向けて、働いたのである。
武力は人を押さえつけることはできても、人々の尊敬は得られない。現代でもハードパワー(軍事力や経済力)のみならず、ソフトパワー(価値観、文化等による魅力)、スマートパワー(ハードパワー+ソフトパワー)が議論されるのは、このためである。
「文化戦士」の働きは、文字通り、情けは人のためならず、の行為である。彼らは、後世の人々が、戦中にいいこともしたと弁明し、中国人の神経を逆なでる発言ができるよう行っていたわけではないことを、決して忘れてはいけない。
■ 戦後は日台関係に引き継がれた
1945年8月15日に、蒋介石は、前夜自ら一晩かけて執筆した、いわゆる「以徳報怨」(日本へは怨みではなく、温情を以て応えよう)演説を読み上げた。同じ日に、高々1週間も戦っていないソ連は、日露戦争の仕返しだ、といい、日中戦争期間の約半分の4年弱しか戦っていないアメリカは、リメンバー・パールハーバーといった。他の連合国の同じ日の演説と比べても際立った蒋介石の演説を聞いて、当時の日本兵は、心底中国人にはかなわない、と思ったのである。
そして、その演説はリップサービスではない。蒋介石は、対共産党との内戦を想定し、日本(腐っても鯛である)から援助を引き出すための対日政策は、敗戦日(蒋介石からすれば戦勝日)から始まっていた。この演説と同じ日に、旧日本軍の岡村寧次将軍に国民党軍に武器の明け渡しを指示した。本来なら東京裁判で裁かれてしかるべき、岡村寧次将軍や蒋介石が日本陸軍学校在籍当時の教官で終戦時大陸にいた将校たちが、東京裁判で裁かれないように、中国で裁くからと東京裁判が終わるまで中国にとどめ置いた。一方、終戦当時中国大陸に百万人いたといわれた日本人を大きな混乱もなく速やかに日本に送る手配もした。(命からがら引き上げてきたのは、民間人を守らず我先に逃げた関東軍所轄の満州と、朝鮮半島から逃げてきた人たちである)岸信介等は、蒋介石の見事な差配に感銘を受けていたという。
蒋介石は台湾に拠点を移した後、旧日本軍の将校たちを軍事顧問団(「白団」)に内密ながら請うた。岡本自身は病床についていたため、富田直亮少将率いる白団は、蒋介石の期待に応え、アメリカから軍事顧問団が来るまで、蒋介石が敬愛した武士道の精神を台湾軍に教え、体系立てた座学、実習訓練を施し、実質的な正規軍に育て上げた。(戦中の国民党軍はほとんど何も訓練もなくいきなり対日戦に駆り出されていたので、基礎がほとんどできていなかった。)旧将校自ら(!)匍匐(腹ばい)前進さえも実践して見せて、手取り足とり教えていたという。この白団を通じて、岸信介首相と太いパイプを築いたという(さらに別途吉田茂―佐藤栄作の自民党主流派にもパイプを築いたといわれる)。
蒋介石政権は、日中戦争時の対日賠償金も請求せず(旧日本軍の武器受け渡しを除く)、敗戦国日本の占領政策に寛大な対応を連合軍に求めもした。フィリピンが日本への賠償金の金額について蒋介石に内密に相談を持ちかけたとき、日本はアジアにとって大事な国で、日本の経済復興が重要課題なので、自分は一切請求しないと伝え、フィリピン側を驚かせた。その後、フィリピンが日本に提示した賠償金額は、蒋介石に相談したときよりもかなり少額になったという。
もちろん、蒋介石・経国政権が対日政策を重視したのは、日米同盟があるからで、台湾有事には目と鼻の先の沖縄から在日米軍が助けに来てくれるだろうから、日米同盟が永続するように日米両国にロビー活動をしていた。それでも、蒋介石の側近たちは、蒋介石は日本からゲストが来る時には嬉しそうだったというエピソードを残している辺りから、心情的にも親日的な面はあったのかもしれない。
さらにこの蒋介石の戦略は李登輝政権以降にも受け継がれ、台湾が日米同盟、台湾関係法(事実上の米台同盟)によらずして身の安全が確保されるまで、程度の差はあれ、この戦略は続くことだろう。
なお、こうした日本史上珍しい民族大移動・交流の遺産は、今あるのだろうか?例えば、姉妹都市(都市といいながら、都道府県、市町村を含む)に見いだせる。姉妹都市になったきっかけで明治から終戦までの出来事に起因するものを(財)自治体国際化協会のサイトで調べてみると、以下の通り(この手の話はほとんど語られることはないので、冗長ではあるものの、全部掲示していく)。
<中国>
- 山形県と黒龍江省:もともと戦前、満蒙開拓団として山形県からかなりの人数が派遣されていたことなどから、中国東北部の三省とは以前から深いつながりをもっていた
- 会津若松市と荊州市:荊州市は、先の大戦で本市にその本拠地があった旧陸軍歩兵第65連隊の通称白虎隊が駐屯した地
- 藤沢市と昆明市:中国国歌の作曲家聶耳が昆明市の出身であり、また藤沢で没したことが縁
- 新潟県と黒龍江省:中国東北地区には戦前多くの新潟県人が居住していたこと
- 福井県と浙江省、あわら市と紹興市:紹興市出身の文豪魯迅が日本留学の際、福井県芦原町出身の藤野厳九郎医師と師弟関係にあった
- 韮崎市と佳木斯市:山梨県民が多数居住していた黒竜江省内に提携先を求めた
- 泰阜村と哈爾濱市方正県:過去に旧満州(中国東北部)に分村移民で多くの開拓団員を送り出したが、終戦前後の逃避行や戦争で多くの人達が亡くなるという犠牲をはらい、やっとの思いでたどり着きお世話になった地が中国黒龍江省爾濱市方正県だったので、恩返しをしたいという思いがあった
- 神戸市と天津市:(1)1930年代日本の対中国貿易の30~40%が神戸港で扱われていた、(2)多数の華僑が神戸で商工業を営み、中国領事館も設置されていた、(3)現在も在住華僑8,000人を越え、国際都市神戸の発展に大きく寄与している
- 都城市と重慶市江津区:日中戦争中の1940年に八路軍(中国共産党軍)の聶栄臻将軍(江津出身)が現在都城市在住の栫美穂子さんを救出したことが、日中国交回復時に大きな話題となり、1980年代に聶栄臻元帥より友好都市提携の提案があった。
<韓国>
- 北杜市と抱川市:浅川巧(朝鮮半島で植林事業を行いつつ、朝鮮半島の陶磁器と木工を研究紹介した)の偉業を保存、継承するため、韓国林業研究院に協力依頼をした。
<台湾>
- 上小阿仁村と萬巒郷:北林村長が台湾屏東師範学校を1943年に卒業後屏東縣潮州鎮にある四林国民小学で教鞭をとった
- 石垣市と蘇澳鎮:古い時代から双方の漁民の往来が頻繁に行われ、終戦時には戦時中に台湾に疎開していた八重山の人々が蘇澳港から引き揚げる際に、蘇澳住民の世話になったという深いつながりがある。
<フィリピン>
- 五戸町とバヨンボン町:第二次世界大戦中、前町長を隊長とする川崎隊(食料補給隊)本部を置いたところである。当時の日本軍と関係の深い原住民も多い。
- 羽生市とバギオ:羽生市在住の神山信雄医博(第二次大戦中、バギオ市の陸軍第74兵站病院長として勤務)と、バギオ市のルスカ・P・プレエデス元バギオ市長(州知事、下院議員など歴任)の国境をこえた友情による橋渡しによる。
- 福山市とタクロバン:第二次大戦中、レイテ島は激戦地となり、福山市にあった歩兵第41連隊の2,300人を含む多数の日本兵が戦死した関係で、度々慰霊団が訪問していた。
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